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適応障害パニック障害と闘う日々 Cherry's Diary

適応障害と診断され休職。パニック障害併発。復職までの日々を綴ります。

④夫と離婚した事は罪か?「鬱入院」

こんにちわん🐶


cherryです。


義父とわんこが亡くなって10日。
未だにふと思い出して泣いてしまう毎日です。


前回は鬱病から自殺未遂までを記しました。

前回の記事はコチラ↓
https://tsukinohikaricherry.hatenablog.com/entry/2019/12/18/020006



〜鬱の日々〜


大量服薬で自殺に失敗した私はそのままその総合病院へ入院しました。


何も食べない為点滴で栄養を摂る。


病院を抜け出し線路へ立ち、通報で保護され暴れまくった事により体が重くて立ち上がることさえ辛い薬を投与されるように。
その上一時は閉鎖病棟


フラフラ歩いてナースステーションへ行き、訳わからなくしてくれ!薬をくれ!
何で死ねなかったの!!?と泣き喚く日々でした。


その状態から、私の母は夫に、
もうこの子はダメだろう、
普通に生活など出来ないと思う。
面倒を見ていくのは大変だから離婚した方がいい、と言ったのですが、
どんなにわからなくなっても自分が面倒を見るので離婚はしません、と夫は答えたそうです。



入院から一ヶ月程経った頃、波はありましたが口から少量ではあるものの食べ物を食べれるようになり、入院患者と話しが出来るまでに回復。


回復に向かったのは子供達のおかげでした。


夫より、
ママが病気になったのは私がいけない子だったから?と長女に言われた、と伝えられ、子供にそんな思いをさせているのか?と深く反省した事。

そして、見舞いに来た娘達がママと寝れないのが寂しいと言うので、
「夢の種」をいつもポッケに入れてあげてからバイバイの習慣だったのですが、下の子が、
ママと一緒にいたい、、、。
と、ポロポロと涙をこぼす姿に、胸がとても痛んだのです。


私は、毎日死に切れなかった自分を恨めしく思い、死にたい、消えて無くなりたい、そればかりを考えていました。

この娘達によって、心がやっと動き、
一体私はここで何をしているのだろう?
この子達にこんなにも寂しい思いをさせて、なんて悪い母親なのだろう?
早く帰ってこの子達と寝てあげたい。

そう思うようになったのです。



〜入院で得たかけがえのない人〜


回復のきっかけとなった事にもう一つ大切なことがあります。


私は退院まで末期病棟にもおりました。
そこはもう自身の命の期限を知りながらも強く生きていらっしゃる方々の病棟。
そこで、数名の方々と親しくなりました。


考えてみると、自ら命を消そうとした私に対して、いらない命なら私にください、と思うくらい憎たらしい存在ともいえる私。
それなのに皆、
俺たちは体が悪いから死に向かうのは仕方ない。
心が死にたい程辛いのは、俺たちなんかよりも辛いよ?
辛かったね。
と、優しくしていただきました。


若くして癌に侵され、
俺、もうあかんねん!!と笑ってみせたあの人も、
ヤクザとして生き、
悪さばかりしてきた罪なんや!と笑っていたあの人も、
みんなみんな亡くなりました。


私は退院後回復してからは、毎日その方々の世話をしに病院や退院された方の家へ行く生活をしていました。

人生の最後に出会えて良かった。
そう言っていただける事は、私も生きていて良かった、と思える事でした。


死を目の前にした方々と病院で知り合えた事。

命の意味を知る。
誰かのために生きる事の重み。
普通に訪れる毎日は奇跡であり、普通などないということ。
大切に一日を過ごすこと。
感謝ということ。


この方々と出会えたからこそ、その後退院後の怒涛の日々から鬱の寛解を迎える事が出来たのです。



長くなりそうですので、続きは次回綴らせていただきます。


ではまた次回🐶