適応障害 パニック障害 休職 復職

適応障害パニック障害と闘う日々 Cherry's Diary

適応障害と診断され休職。パニック障害併発。復職までの日々を綴ります。

③夫と離婚した事は罪か?「自殺未遂」

こんばんわん🐶

cherryです。


前回は鬱病を発症した経緯までを記しました。

前回の記事はコチラ ↓
https://tsukinohikaricherry.hatenablog.com/entry/2019/12/17/165422




〜自分の幸せとは何か?〜


別居を解消し、家に戻った私を夫は抱こうとしました。
恐らく関係改善のためにやり直そうとしてくれたのだと思います。
しかし今度は逆に私が夫にもう触れられたくもないほど、愛は無くなっていました。


私はあなたの幸せの為に家に戻った。
だけどこれから一生あなたに抱かれる事は無い。
私の苦しみをあなたも知ればいい。
そして、お義母さんへ会うことも一生無い。
それでもいいと約束して。
私はあなたと子供達の幸せの為に生きる。
だから、この二つは変わらない決意だ、と伝えました。



表面的には幸せでした。
子供達と休日にはどこかへ出かける。
仲良しの親子でした。
子供達は可愛い。
夫と喧嘩もする事無く、穏やかに過ごしていました。


しかし私は相変わらず心の中にポッカリと穴が空いているような虚無感が絶えずあり、子供達を寝かしつけた後一人運転して海を見にいき、泣くだけ泣いてから朝方帰るような日々を過ごしていました。


クリニックへは通院していましたが、薬は飲んだり飲まなかったり、飲んだふりをして溜め込んでいました。
先生に話しても3分。
子供が可愛いだけでいいでしょ?
それだけじゃダメなの?
今は自分の幸せとか考えなくてもいいでしょ?
母親なんだから。
などと言われ、私の幸せとは何か?という事は何も解決されませんでした。


子供を愛している。
だけど、私の一度きりの人生はこれで幸せなのか?
私の存在意義はどこにあるのか?
もう、逃げ出してしまいたい。
どこかで消えて無くなってしまいたい。
それが頭の中でいつもグルグルしている毎日でした。


辛くなると多めに抗うつ薬を飲むと、ボヤーっとして何も考えられなくなるので、辛くなるとそういったODを繰り返すようになっていきました。



〜ついに自殺未遂〜


Twitterなどで、死にたい、という呟きをよく見かけます。
それで実行する方もいらっしゃると思いますが、大半の方は、
死にたい=助けて
なのではないかと思います。


私は、死にたい、というよりも、消えてしまいたい、お願いだからだれか助けて、といつも思っていました。



「衝動的」

これが一番恐ろしいものだと思います。
これで亡くなる方が多いのではないかと思うのです。



その日、やはり現実から逃れたくなった私はいつものようにODしていました。
しかし、頭のモヤモヤは晴れず、どんどん飲むことを止められなくなりました。
そして、「衝動的」に、
もういいや、このまま死んでしまおう。
と思ったのです。
そこから遺書を書き、全ての睡眠薬抗うつ剤、風邪薬などを水で飲むことが面倒になったのでお椀に薬を出し水を入れ、お味噌汁を飲むように飲み込みました。



意識朦朧の中、一本の電話。
保育園からでした。
娘が熱なので迎えにきて欲しい、と。
もう這わなければ立てない状況の中、親へ電話し、娘の迎えを頼んだ後に意識を失いました。



気付いた時は病院のICUでした。
二日後の事でした。


死に切れなかった思い。
なぜ生きているのか?


点滴、尿道カテーテル、オムツ。
何がなんだか、先生から話しかけられても、何かを喚いて泣いていました。


そのうち歩けるようになった頃、ICUから喫煙所へ行き、そこにいる方にタバコをもらって吸いました。
入院大変ですね、どこの病棟ですか?
と聞かれ、
ICUです。
と答えた時のその方の驚く顔と、そのあとに看護婦さん達が慌てて私を連れに来た時の事を鮮明に覚えています。


隣のベッドにも私と同じように大量服薬した人が救急で入り、その方は数日意識戻らず看護士や医師がバタバタしていましたので、
いいなー、この人は意識戻らないかもなぁ、などと虚ろに思ったりもしました。


こうして私は鬱病から自殺未遂を起こし、鬱の急性期に突入していきました。



離婚した事について語るつもりの前提が長くなってますね。
すみません。

離婚に至った原因が簡単なものではない為、事細かに綴っています。

自身の健忘録となっていますが、お読みいただいた方、ありがとうございます。

しばらく続きますので、勘弁してくださいね。


ではまた次回🐶