適応障害 パニック障害 休職 復職

適応障害パニック障害と闘う日々 Cherry's Diary

適応障害と診断され休職。パニック障害併発。復職までの日々を綴ります。

初めてのブログ 〜適応障害と診断前 序章〜

こんにちわん🐶

cherryです。

 

Amebaでブログを開設し、日々の事を綴っておりましたが、病気と向き合う健忘録というものを作っておこう、と思い立ち、こちら開設しました。

 

 

まず、初めて適応障害と診断される前の事を書きます。

 

 

〜体調を崩し始めたキッカケ〜

 

2018.4月

新年度の始まり

私は上司より別室へ呼ばれ、今の受け持っている仕事を手放すよう指示を受けました。

 

私の業務は、ある上場企業の支店で、経理総務を一人で受け持ち、その他上司の必要とする書類の作成や、監査に関わる書類作成等、本社との橋渡し役というのが私のメイン業務であり、その傍で他の人の業務をカバーし、指導していく毎日を過ごしていました。

この業務は信用が無いと任せて頂けない業務であり、所属長、本社との関係も密になる為、各事業所の担当者はある意味一般職の中で一番秀でた者が担当を受け持つ様な認識がありました。

その為、私は誇りを持ってこの業務に取り組んでおりました。

福岡にはcherryさんがいていいですよね、と言われ、他事業所の担当者から教えを請われる事も多く、やり甲斐のある充実した毎日を送っておりました。

 

そこへ、青天の霹靂と思える上司からの一言。

私は何を言われているのか?

頭が混乱し、涙が溢れました。

 

私の何がいけなかったのでしょうか?

仕事を出しゃばってやり過ぎましたか?

悪い所があれば直します。

なんでもおっしゃってください。

と、涙ながらに訴えました。

 

というのも、私はある程度年齢を重ねており、この仕事から外された時は会社を辞めろ、という事だろう、と以前から覚悟していたからです。

 

上司は、仕事が出来ないとか、あなたを必要としていない、というわけでは無い。

3年後に開設される新事業所へ若手を送り出すために、今の業務を若手へ覚えさせ、指導に回って欲しい。

あなたの仕事を覚えるためには年単位かかる。

その為、今から指導して欲しい、と。

そして、年齢的な事を考えて、今の業務だけではなく、新人、中堅の指導役となり、一線で働くという事から退いて欲しい、と。

後身の育成に力を注ぐべき年齢なのだと。

 

今考えれば当然とも思える提案だったのですが、その時私は、

もう会社からは必要とされない老いぼれの人間なのだ、辞めるべきなのだ、としか受け止める事が出来ませんでした。

上司の言葉は建前だけで、本当は私はいらない人間なのだ、と考えました。

こんないらない人間、辞めなければ。

そうは思っても、シングルマザーである私には子供を育てていかねばならない事情もあり、お金が必要でした。

辞めれば収入が断たれる。

しかし、こんな老いぼれが会社に居座ることは会社に申し訳ない。

そんな葛藤の日々が始まったのです。

 

そんな中追い討ちをかけたのが、

個人成績というものでした。

ランクはSABCDEという6段階。

Sは総合職で大変成績を挙げた者が与えられる評価であり、一般職の最高ランクは実質A。

私は何年も変わらずAという評価を受け、更に賞与時には事業所長より与えられる特別金までも与えられる評価を受けておりました。

しかし、その面談後評価の辞令がおり、私の評価はBとなっており、大変なショックを受けました。

この事により、尚更会社の本意は、私に辞めて欲しいのだ、と確信を持って疑わなくなりました。

 

会社からの評価、業務の変更により、私のモチベーションはすっかり失せ、しかし働いて稼がなければ子供を育てることのできないジレンマがこの時より始まりました。

 

他の事業所へ転勤した上司の方々や、同じ業務担当者から、沢山の内線。

なぜ外されたのか?と。

それも苦痛でたまらなかった。

建前は、数年後に待っている新事業所の為に育てなければならないから、と。

でも、担当まで外す必要はないだろう?おかしいじゃないか!と憤慨してくださる所属長もいらっしゃいました。

 

全ては転勤してきた今の所属長に、私の能力が認められなかったということ。

それが全てなのに。。。

 

今考えてみると、この頃から抑鬱気分を伴って、体や精神がおかしくなっていきました。

 

次回はここから始まった体の異変についてお話しします。

 

ではまた次回。